県営船沢集団農耕地開発事業として、岩木山麓弥生地区に、平野部の村々から入植者を募ったのが、1936(昭和11)年です(引用文献/横山弘(1965):「岩木山麓の開発と集落」『弘大地理1』 p1-6))。
入植者たちは、りんご苗木を共同でつくって販売し、土地買収資金を確保しながら、畑作中心の経営で始めたのですが、1940(昭和15)年からりんごも取り入れ、一戸当たり1町歩ずつ作付けしています。
当時、日本は第二次世界大戦に突入していて、平野部の水田単作の村々では、徴兵や徴用のため人手不足でした。そこで、入植者たちはかれらの土地を小作し、水稲も作付けしていったのです。
1945(昭和20)年、終戦となり農地改革が行われて、多くの農民が自作農となりました。
弥生地区の入植者たちも、小作していた水田を所有することになり、そして1949(昭和24)年頃になってりんごも収穫できるようになりました。弥生地区は「旭、スターキングの特産地」としての地位を確立していったのです。
1946(昭和21)年には、戦後の緊急開拓として、上弥生、湯ノ沢、杉山、平和地区に復員者、引揚者そして農村の二・三男たちが入植し、弥生地区の人々と交流しながら、りんご栽培の経営・技術を修得していき、りんご園を開園しています。
1961(昭和36)年からは、国営パイロット事業の大規模開発が、岩木山麓の入り会い採草地(引用文献/宮下利三(1956):『岩木山麓の採草地について』 弘前市政調査会)(引用文献/福田徹(1965):「岩木山麓の開発に関する歴史地理学的考察-沖積平野の新田開発と関連して-」『人文地理19-1』p1-30)であった土地を中心に行われています。
岩木山麓地帯で、戦後行われた開拓地の状況を、表3と表4にまとめてみました。

表3/岩木山麓地帯の開拓地の標高と入植戸数の変遷

表4/岩木山麓地帯における1972(昭和47)度開拓地営農実績
開拓地の標高は、津軽羽黒が500メートルと高く、他地区は300メートル以下ですが、標高300メートルの西村(相馬萱萢)では、1975年には全員離農していて入植者がいなくなるなど、概して標高の高い開墾地で入植者の出入りが激しかったことがわかります。
1972(昭和47)年に青森県が発行した「昭和47年開拓地営農実績」によれば、開拓面積1,646ヘクタールのうち、60%以上の耕地に作付けされています。機械力による開墾とはいえ、手開墾によるところも多かったに相違なく、入植者たちの血と汗とで切り開いた耕地です。戦後の開拓者たちのこれら成果は、高く評価されるべきでしょう。
青森県は1973(昭和48)年以降、「開拓地営農実績調査」を実施していませんが、高橋正雄(引用文献/高橋正雄(1994):「第Ⅲ部地域論 第1章弘前盆地におけるりんご栽培の地域的展開 4.岩木山麓りんご栽培地域の形成過程」『東北地方りんご栽培地域の地誌学的研究』高橋正夫著 伊吉書店 p72-79)は、中南農林事務所にあった資料などから、その後の開拓地の状況を整理しており、図6、表5および表6にまとめてみました。

図6

表5/岩木山麓開拓の営農類型と農地面積

表6/岩木山東麓におけるりんご園
営農類型をりんごとした農地は1,400余ヘクタールで、全農地の62パーセントを占めており、多くは岩木山東麓地域に栽植されています。弘前市管内における国営パイロット事業の追跡調査によれば、表6に表したように、一戸当たり1.6ヘクタールの経営規模となっています。
1967(昭和42)年に設置された「弘前市農政懇談会」は、将来のりんご経営指標を「家族構成5人、就業者2人で経営面積2.4ヘクタール」(引用文献/福島住雄(1977):「青森県岩木山麓リンゴ栽植の経過と問題点について」『東北農業研究20 』p126-129)(引用文献/石岡国雄・波多江久吉・青森県りんご試験場(1965):『岩木山麓りんご栽培の手引』 弘前市)と答申しています。一戸当たり1.6ヘクタールの経営規模は、この指標と比べれば少ない経営面積ですが、当時、青森県りんご農家の栽培面積が、平均1ヘクタール以下であったことからすれば、「岩木山麓での開拓りんご栽培は成功した」といえるでしょう。

