岩木山をめぐるりんご栽培の展開

1.津軽りんご史事始め

1870(明治3)年、弘前藩知事津軽承昭は、近郊の豪農・豪商を集めて告諭(こくゆ)しました。「10町歩以上を持っている者、余分の土地を出してほしい」というのです。弘前藩士2,516名に土地を与え、彼らを自活させ、かつ地方産業を奨励させるという狙いがあったのでしょう。献田に応じたもの389名、集めた田畑は2,900町歩であったといいます。

これは、大地主たちと、かれらの土地を小作していた農民たちの犠牲によって成し遂げようとした、全国でただ一つ、弘前藩だけが行った事業でした。これで津軽地方の大地主は、10町歩以下の土地所有者となり、そして町(都市)で、組織人として生きてきた士族たちは在(村)に分散し、少なからぬ士族たちが帰農したといわれています。

教養人でもあった士族たちと旧家を誇る在郷地主・富商たちは、地域の政治・経済の主体となって、共に村を治めていくという責任を負わされたのです。

時代は急激に進んでいきました。1871(明治4)年7月には、廃藩置県により、弘前・八戸・七戸・斗南(となみ)・黒石の5つの藩はそれぞれ県となりましたが、同年9月には藩にとらわれない県の統合が行われ、前記の5つの県に北海道松前地方にあった舘(たて)県を合併して、新しい弘前県となりました(引用文献/弘前大学国史研究会編(1966):「第六章 明治維新と青森県の誕生」『青森県の歴史』青森県地方史文献刊行会 p123-148)。そして同年11月には県庁を青森に移し、青森県が誕生したのです。

明治政府は、土地価格に応じた地券をあらゆる土地に発行し、税を取りたてる制度の実施をめざしていました。1872(明治5)年には、土地売買を自由にし、土地の私的所有をも認め、そして1875(明治8)年には、地租改正事務局を設置して地租の改正に着手し、国家財政の基礎固めに邁進していったのです。

江戸時代でも、土地の売買は認められていました。しかし土地の所有は、村共同体に帰属するところが多く、田畑といった耕地は、入り会いの山・原野と一体で与えられていて、実に、田畑面積の10倍以上の山林・原野が入会地(いりあいち)として、無税(無年貢)で開放されていたのです。明治政府は、耕地、宅地とならんで、山林・原野をも制度実施の対象とし、官民有区分を行いました。青森県では国有地とされた山林の比率が、全国一高かったのですが、それでも相当量の山林・原野が村落所有地として残り、牛馬の飼料・田畑の肥料としていた秣(まぐさ)や、毎日の生活に必要な薪、山菜などを採集することが許されたのです。

明治44年青森県統計(1911年)によれば、村落有原野の一番多かったのは東津軽郡で8,132町歩、二番は南津軽郡で7,978町歩、中津軽郡が7,137町歩、西津軽郡が3,245町歩、そして北津軽郡が2,033町歩となっています。

明治政府にとって、日本経済の近代化、ことに工業化は大きな課題であり、欧米からの技術移転により、近代工業を育成することに重点を置いていました。農業についても同様に、範を西欧に求め、農産物の種子、種苗、種畜、農機具などを西洋から導入し、全国に配布したのです。

1874(明治7)年、青森県庁に内務省勧業寮から、「英米両国種果樹試作」の依頼文書が届き、青森県は「苹果(へいか)と葡萄をそれぞれ三本ずつの分譲」を希望しています。その後つづいて分譲された西洋りんごなどの試植苗は、士族授産事業という意味合いもあったのでしょうか、町に居住していた士族、在に分散していった士族、そして在郷地主・富商等に配布されています。

ところが明治政府は、1881(明治14)年の農商務省設立を境に、これまでの欧米農法輸入から、在来農法重視へと政策を転換したのです。おりしも北海道・東北では「試植された西洋りんご」がぞくぞくと実を結び、新しい果樹産業への期待がふくらんでいったときであり、また、士族授産事業として国有地の貸与を受け、岩木山麓は常盤野村に農牧場を開こうとしていた矢先のことでした。

官の保護助成がうち切られ、「士族の誇りと生活」をかけた自助振興の始まりです。

「明治七年府県物産表」(1874年)に、果実生産額が載っています。青森県の欄には葡萄、梨子、栗、梅、桃、柿と並んで、林檎321円とあります。林檎といっても今日のような「西洋りんご」ではなく、「和林檎」と呼ばれている在来種ですが、当時、少量ながら生産され、流通さえしていたのです。

「和林檎」が生産・流通されていた県名をあげると、青森、岩手、磐井、宮城、秋田、山形、置賜、若松、福島、磐前、茨城、熊谷、足柄、新潟、相川、新川、石川、敦賀(つるが)、山梨、長野、筑摩、岐阜、豊岡、大阪、奈良、浜田、広島、名東(めいとう)、小倉そして大分です。このように、日本全国にわたって林檎栽培が行われていたのです。

「西洋りんごを栽培していくだけの、技術的基盤はすでにあった」と考えられます。

岩木山をめぐるりんご栽培の展開